昭和48年03月08日 朝の御理解
御理解 第94節
「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」
これは取次者に下さっておる御理解だと思います。お供え物やらを、どんどん持って来る信者を大事にして、それが出来ない者は粗末に扱うと、言う様な事ではならないという風に、教えておられますが、これは信者側の方からいうても、同じだと思う。信心させて頂く者として、人間を軽う見な、軽う見たらおかげはなし、と仰るように、これはその人その人の見解にもよる事ですから。
けれども、どこまでも矢張り神の氏子としての見方、そういう頂き方と言う事が、一番間違いない、と思うんですよね、その人の神性を見ると言う事、これは信心させて頂く者が、矢張り心がけておらなければならない事、というて社長さんも小使いさんも、同じに扱えと言う事じゃない、それは社長さんは社長さんとしての給料、小使いさんは小使いさんとしての給料、もう不同にというて全部給料を同じにせろ、と言った様な事ではないと思うのです。
まあそれは別と致しまして、信心の篤いのが眞の信者と、こう仰っておられる。信心の篤いと言う事は、毎日毎日お参りをしておるという人が、そんなら必ずしも信心が篤い、とはいえないと思うのです。それはもう、熱心に毎日参ってくる、まあ熱心ではありましょうけれども、信心の篤いのがというのを私は、例えばですね、段々信心を分からせて頂いて、教祖の神様に、天地の親神様が、立教神伝を下しておられます。
世の中の難儀な氏子が助かる事の為に、という教祖様に対する、神様の願いというものがあります、いわゆる立教神伝です。段々信心を、手篤くさせてもらうと言う事は、私は、そういう神様の願いを受けての信心、そういうのが 手篤い信心だと思うですね。私共の願いを聞き届けて頂く為に、日参り夜参りしておると言った様なのは、それは信心の篤いのが眞の信者と仰っておられる事には、ならないと思うのです。
ですから、神様の心を心として、その心を体して信心をする人、例えば各々が立教神伝でも受けたような気持でです、自分の助かっていっておる事を、有難いと思うなら、人も又助からなければならない、為にその信心がなされておるという信心を、私は手篤い信心であると同時に、眞の信者と言う事になると思うのです。皆さんどうでしょうか、朝早うからお参りをして来ておるが、只自分のこの一つの願いを、聞き届けてもらいたいばつかりに、参っておるというなら。
熱心な信心ではあろうけれども、信心の篤いのが、と言う事にはならないと思う、眞の信者じゃとおっしゃっておられる 眞の信者ではないと思う。信心を頂くと言う事、おかげを頂くと言う事ではなくて、信心を頂くと言う事は、どう言う事かというと、全ての事にお礼がいえれるようになっていく、その、言わば範囲が段々、広うなっていくと言う事です、これはもう、全ての事にお礼がいえれる信心、そう言う信心は、言わば眞の信心を手篤くさせてもらわなければ、分かる境地ではありません。
今迄不足に思うておった事にでも、本当の事を分からせて頂くとお礼を申し上げる事ばっかり、いわゆる眞の信者と仰る、眞の信心、眞の信者と言う事はです、お礼を言う事の、段々多くなっていくという信心を、させて頂いておると言う事。一切の事にお礼がいえれる、そういう信心を目指す事を、私は眞の信者と言う事になる。信心をさせて頂くと言う事によって、人間が出来なければなりません、只普通でいう信心が出来ると言う事と、人間が出来ると言う事は、ちょっと違うようです。
普通でいうあっちは、人間が出来ちゃる、というのとです、信心によって、あの人は仲々信心が手篤う出来られる、というのとは違うようです。昨日は総代会でした、北野の秋山さんがお話しておられました、いつか北野の町会議員の方達が、合楽に、堤さんに導かれて、お参りして見えた事があった。その町会議員の方達が、合楽の金光様ちゃやっぱり、大した所だねとゆう意味の事をいわれる。
第一もう兎に角、履物がきれいにぴしゃっと揃えてある、便所が行き届いて、お掃除が出来ておるもうこれを見ただけでも、合楽の金光様が立派である事が分かる、という意味の事を、秋山さんに話された、とゆう話を昨日、しておられました。例えて申しますと、信心をさせて頂いて、人間が出来てくると言う事は、そんならこれは教会だけの事ではありません、お互いの家庭に於いてもそうです、あちらのうちに行ったら、それこそ下駄が綺麗に並んでおった、お便所が綺麗であった。
それは だから教会だけの事ではありません、いや家だけの事ではありません、あちらは信心されるようになったら、人間そのものが変わられた、やつぱり信心の功徳だと、信心の無い人でも感じれる位なものがです、段々出来てこなければなりません。昨日私は四時の御祈念を奉仕させてもらう前に、ちょっと手洗いに立たせて頂いた、そしたら、第一入り口の所に、おっぱまかるようにして、掃除器が置いてある、事務所の方はもういっぱい、これ以上散らかされまいというごと、散らかしてある。
散らかしてあると言う事は、そういういろんな御用があっておる、と言う事なんです、実は。いろんな御用をしておったんです、何人かの人達が、けれども、座布団はあっち向き、こっち向き引き出しは、こうして引き出したまゝであるから、私が末永さん、久富先生を呼んでちょいと、このざまは何のという意味の事をいうて、片付けてもろうた。成程、御祈念が終ったら、すぐ又その仕事にかゝらんならん、からではあろうけれども、立ち上がってくる時、ちょいと座布団をなおしてくる。
ちょいと引き出しはこうやって押し込んでおく、ちょいとそこ辺だけは片付けておく、とゆう位な事は出来なければ、例えばそんなら、今の秋山さんの話じゃないけれども、合楽にお参りさせて頂いて、入り口にはもう、こう散らかしてあって、こうじゃったと、いうだけでもです、私はこゝには、有難くなりに来るのでるのに、有難いと言う様な気持が無い。お便所がきれいにしてある、下駄がきちっとしてある、薄暗い廊下を通って、お広前に向ってくる、それ迄に心が何がなしに、清められたような気がする。
そしてお広前に入って、愈有難い話を頂いたり、御祈念をしたりする、そういう所なんですね、こゝはですから、そうゆう心がけが必要なんです。そう言う事をいうて御祈念にかゝりました、そしたら神様から頂く事がね、女の方達のお乳の小さい人が、乳を大きく見せる、あれはパットというのですか、あれを頂くのです。例えば洋服をピシャッと着ても、お乳がペシャッとしとるなら、やっぱり姿形が悪い。
やっぱりこうお乳がもり上って、そして洋服ピシャッと着ておられるところに、女性としての、魅力とゆうものがあるように、それは本なもんじゃなくても、そうするのが女の、いわゆる、魅力を作ると言う事になるのです。信心はそこ迄、実は出来ていなくてもです、下駄位揃える位な事きちっとする位な事は、信心は出来ていなくても、させて頂くとゆう事、信心者としてです。
真の底からではなくても、信心させて頂いておるという、自覚に立ってです、少しは信心の無い人達とは、違わなければいけないと言う様な、私は精進をすると言う事がです、信者としての、魅力を作る事だと思うです。そんな事から、昨日総代さん方にも、お話を聞いて頂いたんですけれども、例えば合楽の、教会の総代を受け賜っておるという人達がです、朝参りも出来んような事では、合楽の総代はつとまりません。
いや又一人一人の自覚としてもです、そんなら皆さんが朝参りさせて頂いておるがです、私が一人お参りをしない事は、合楽のごひれいにかゝわるんだという位な自覚。これはもう、自分がこの事を願わんならんから、この事を頼まんならんから、毎日毎日お参りをしておる、というのではなくて、私が一人お参りをすると言う事は、それだけ合楽のひれいにかゝわる事だと、いう位な信者の自覚、又幹部総代の自覚、というものがなされなければいけません、というてお話をした事です。
私共が親教会に日参させてもらいよる時に、それを思いました私が一人参らんと、他の人達がガッカリしなさる、と言った様な自負を持っておりました。今日はあの方の姿が見えんが、と他の人が寂しがる位なです、寂しがらんでも、に思われとる位な自覚がなからなければならん、それはもうとりもなおさず、自分一人の為ではない、いうならば教会愛に燃えて、お参りが出来ておると言う事になるから、眞の信心に近づく訳です。
只自分が願いの成就、只自分の小さい願いを、願いをかけて、只それが成就する事の為に、一生懸命お参りをする、そのお願いも、いけないと言う事じゃありません、けれどもその願いとゆうものが、もっと大きな、いうなら願いになってゆくと言う事が、今日の御理解の、手篤い信心であり、眞の信者、と言う事になるのじゃないでしょうかねえ。お互い各々がです、立教神伝でも受けた気持で、一人でも多くの人が助かられる事の為に、自分の信心修業が行使されておると、言う様な信心になってゆくのがです。
私は信心の篤いのが眞の信者じゃと仰るのは、そうゆう思いが段々篤くなってくる事が、手篤い信心であると同時に、眞の信者と言う事になってくるのじゃないでしょうか。それは初めの間はそんなら形だけでも、そんなら下駄一つ揃えさせて頂くと言う事でも、落ちておるチリを一つひらわせて頂くだけでもです、それは信心させて頂いておるなら、こげな事であってはいけないと、言う事を形の上でなす事だけでもです。
それが教会のひれいにかゝわるから、そうさせてもらうというのなら、それはもう手篤い信心、眞の信心としての、いうならば道を歩かせて頂いておると言う事に、なるのじゃないでしょうか。いわゆる自分とか、自分一家だけの事では無くて、それがね、人が助かる事の為に、私共の信心というものが、出来るようになってくると言う事が、手篤い信心、信者になってゆきよる事だと、分からなければならないと思います。今月はとりわけ信心の篤いのが、眞の信者と教えておられますが。
その手篤い信者にならせてもらおう、同時に眞の信者にならせてもらおうという願いを持つ、そしてその信心の、願いの内容というものがです、教団を思い教会を思い、世の中の難儀な信者氏子だけではなくて、信心の無い人達の上に迄です思いがかけられる、ですからそんなら初めて参って来た人達がです、成程教会にお参りさせて頂いたが、参っただけでも何とはなしに、素晴らしい事が分かるなと言う様な、雰囲気を作る事の上にもです、心がけなければならないと言う事を、今日は聞いて頂きましたですね。
どうぞ。